1980年4月25日、米国は前年11月4日に発生した在テヘラン米大使館占拠事件でイラン側に捕らえられていたスパイらを解放すべく、極秘の軍事作戦に打って出ました。作戦はイーグルクロー計画と名付けられ、複数の軍用ヘリや戦闘機でイランの重要拠点を爆撃し、当時のイラン政権の要人暗殺、そして最終的にはイスラム革命体制の転覆を狙いました。
砂漠の真ん中での作戦崩壊
1980年4月25日にアメリカ軍はイラン領空に侵入し、当初はすべてが計画通りに進んでいるように見えました。しかし、タバスでは自然の驚異が彼らを出迎え、激しい砂嵐が発生。機材や視界、通信が大きくかく乱されました。
タバス事件で砂漠に取り残された米兵ら
当時、出動した8機のヘリコプターのうち、1機は途中で引き返し、2機目は技術トラブルに見舞われ、3機目は嵐の中で墜落しました。その結果、使用可能なヘリコプターが5機しか残らなかったため、作戦は中止されました。しかし、現場を離れる途中、残っていたヘリのうちの1機のヘリコプターがC-130航空機と衝突して大爆発を起こし、その結果アメリカ兵8人が死亡した他、軍装備が破壊されました。結局、残りの部隊はパニックに陥りながら撤退しました。
タバス砂漠中心部で失敗したイーグルクロー作戦
当時のイラン最高指導者ホメイニー師「砂嵐は神の使者だった」
アメリカの作戦失敗のニュースがイランに届いた時、各地で市民らが街頭に繰り出しました。また、イラン・イスラム共和国の偉大なる創始者であるホメイニー師は歴史に残る反応を示し、「砂嵐は神の使者だ。アメリカは些かの過ちも引き起こせない」と述べました。この文言は国民の自信の象徴となり、人々は神を拠り所として団結することでいかなる権力にも対抗できることを目の当たりにしました。
タバス砂漠に残された米ヘリコプターの残骸
それから何年も経過した後、米国防総省とCIA米中央情報局の機密文書が公開されました。それらによると、米国はイラン国内のスパイと内通しており、作戦支援のためにテヘランに車両と隠れ場所が提供されるはずでした。しかし、精密だったはずのこれらの計算はどれも、自然と神による「予期せぬ」要因、つまり砂嵐に耐えることはできなかったのです。
タバスに残ったアメリカ軍装備品の残骸を視察するハーメネイー師(現在のイスラム革命最高指導者)
世界の反響・報道:メディアはどう報じたか?
当時、世界中の新聞やテレビ局は「砂漠における超大国の屈辱」「タバスにおけるカーター米大統領の惨事」「アメリカはイランの砂漠に屈した」といった見出しでこの事件を分析しました。
特にアメリカが大統領選挙を目前にタバス作戦で失敗したことは、当時のジミー・カーター大統領のイメージに大きな打撃を与え、これが引き金となって同大統領は落選し、ロナルド・レーガン氏が勝利を収めました。
最終的に、タバス事件は米国にとっての軍事的敗北であっただけでなく、イランの政治文化における「米国支配の時代の終焉」の象徴にもなったのです。ミサイルやヘリコプター、スパイ用地図や先進的な軍装備のいずれも、1つの国民の決意に勝つことはできず、最終的にはアメリカが自白しているとおり全面的な大惨事での幕引きとなりました。
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